更新日:2024年5月5日

ページID:4189

ここから本文です。

【2階展示】くらしの風景

江戸時代は、武士と農民や町人のあいだに、きびしい身分制度がありました。

人々はさまざまな規制の中で暮らしながら、祈り、喜怒哀楽を表現してきました。

また、明治以降西洋文明を積極的に取り入れるなかで、人々の暮らしは衣食住の面、あるいは娯楽や風俗の面でも、大きな変化をみせました。

武士の暮らし(田村家資料)

本郷弓町(現本郷2丁目)に屋敷を構えた田村家は、徳川吉宗の将軍就任に伴い紀州から江戸に来て幕臣となり、勘定所の普請役や大奥広敷番之頭を務めました。

この田村家資料は、平成元年度に教育委員会に寄贈された資料群で、生活道具、武具、絵画、古文書など多岐にわたっており、当時の幕臣の仕事や生活などの様子を伝える大変貴重な資料です。

甲冑と旅道具

書院造りと長屋(復原模型)

室町時代に始まった書院造りは、江戸時代になると寺院や武家屋敷などに取り入れられ、客をもてなす最も重要な客間・応接室となりました。

一方、町屋は普通、通りに沿った表店(おもてだな)とその裏側に並ぶ裏店(うらだな)から成っておりました。裏店には職人や小商人などさまざまな職業の人が住んでいました。

復原模型では、書院造りの座敷正面部分と9尺2間の棟割長屋を背中合せ状に対照して、展示しています。

書院造り(左)と長屋(右)

富士信仰と富士講

江戸時代後期、江戸一帯では富士山に対する信仰が急速に広まり、富士講とよばれる信仰組織が「江戸八百八講、講中八万人」といわれるまでに成立・発展しました。

文京区には、中世以来の富士信仰の拠点である駒込富士神社と、中興の祖といわれる食行身禄墓(じきぎょうみろく)、富士塚(護国寺と白山神社)など都内有数の富士信仰の文化財があり、富士講関係資料の宝庫となっています。

食行身禄墓

富士講の行衣

団子坂菊人形

江戸・東京郊外の景勝地の一つであった団子坂で、幕末から明治期にかけて行われた菊人形は、東京の秋を彩る観光イベントでした。

菊人形は、頭と手足はリアルな人形、衣装は菊の花を用いて等身大に造られ、歌舞伎の場面や戦争などの場面を再現して見せました。

明治9年から東京府に願い出て木戸銭を取って正式に興行化し、明治20~30年代に黄金期を迎えました。

明治42年に両国国技館で電気仕掛けの大規模で斬新な菊人形が始まると、団子坂菊人形は急速に衰退し、明治44年が最後の興行となりました。

団子坂菊人形復原模型

シェア ポスト

お問い合わせ先

アカデミー推進部アカデミー推進課文化資源担当室(文京ふるさと歴史館)

〒113-0033 東京都文京区本郷4丁目9番29号

電話番号:

ファクス番号:03-3818-7210

お問い合わせフォーム

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください。

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?